ものしり研究室

建築学科棟5502号室、ものしり建築研究室です。建築業界や建築家、建築学生の動向を関西の建築系大学院生が自分なりにまとめてます。→社会人になりました。

若者の活字離れは止められない。TikTok世代vsゆとり世代

@monoshiri_lab Twitterより再編集

 

SNSによる人々の価値観の均質化が急激に進んでいます。

YouTubeの垢BAN、Twitterの凍結のように、物事の発言・発信に対する「良い悪い」の判断基準が世界中で同じように共有されつつように感じます。

 

今後、途上国各国に建設される5Gの基地局は、電波だけでなく「先進国の価値観」も同時に運んでいくわけで、そのグローバル化の流れに逆らうことはできないでしょう。

 

また、5G通信では速度制限がなくなるかもしれないと期待されています。若者の活字離れが話題になっていますが、速度制限の廃止はその流れを加速させていきます。

 

少し前に流行ったVineが6秒動画、その次に流行したInstagramのストーリー、その次に隆盛したTikTokYouTubeよりも短い15秒動画ですね。

 

中高生にとってSNS利用はWi-Fiのない学校でアップロードや視聴したりすることもありますから、現在の通信規格では「速度制限」がコンテンツの鍵になっています。

 

2019年以後、現在の4G LTEから5G通信に移行することで、この「通信制限」という壁が徐々に無くなっていくことが予想できます。

 

それに対応するように、長時間の動画や、まるで生中継のようなライブ感を演出したSNSが流行するかと思います。(というかもうすでに流行ってきています)

 

ただ、この動画コンテンツの急激な成長に対して、ひとつの疑問があります。

「人が1日に視聴できる動画の長さ」には限界がある…ということ。

 

「人が1日に視聴できる動画の長さ」

→学生なら5時間、社会人なら2時間程度です。

 

有名インフルエンサーによってブログがオワコンだと叫ばれる昨今、増え続ける配信者どうしで、この動画コンテンツの視聴時間の奪い合いが始まっていくのではないかと思います。

 

というのは、YouTubeで配信される人気動画の再生時間や、広告動画の長さがだんだんと短くなってきている印象があるのです。

 

言語ツールであった1万文字スケールのブログが、たった140字のTwitterへと移行したように、

YouTubeの配信動画も2020年代には、3分から5分動画が主流になっていそうですね。

 

ちなみに、TikTokInstagramのストーリー等は、それを先回りした15秒動画という短さです。

 

この長さは、日本国内のテレビCMと同様の尺であるがために、視聴者が適切に感じる長さとして日本人に刷り込まれているのではないでしょうか。

 

また、TikTokは他のSNSに比べてフォロワー数が比較的増えやすい仕組みになっています。

15秒動画は4回再生すれば約1分ですから、1時間あれば240人分の動画を視聴可能ですね。

 

他のSNSに比べると「いいね」の数が時間に応じて雪だるま式に増えるため、その数を競いたい意欲的な10代が麻薬的にTikTokにハマってしまいます。

 

ちなみに、TikTokはフォロワーが1000人を超えると長尺の60秒動画が投稿できるようになっています。

発信を少し頑張れば手が届くフォロワー数なので、発信者はさらに熱狂的になってしまいますね。

 

すでにTikTokは国によってはInstagramのアクティブ数を抜いたとも聞きますし、YouTubeからもじわじわと視聴者を奪ってきている印象です。

 

また、これは最近テレビ番組を通じて知った話ですが、12歳の女の子がTikTokのフォロワー数250万人で、日本全国1位にランクインしてるそうです。

 

これは冗談抜きですごいです。250万人は大阪市の人口や宮城県の人口に匹敵します。

 

この世代(2000年代後半生まれ世代)が大学生になって就職活動をする頃には、企業が学生個人の自己発信を規制できないレベル(むしろ上手く利用したいレベル)にまで価値観が変容しているのではないでしょうか。

 

現状では企業コンプライアンスという名の下、サラリーマンがSNSを通して実名で自己発信をすることは、社会通念的には認められていません。

 

ただ、新入社員に対して無理にSNSの情報統治をしようとする企業は、人手不足も相まって優秀な若者に避けられていく運命だと思います。

 

学生時代に実名で1万人のフォロワーを手にした優秀な学生が、就職後にそのアカウントを簡単に辞められるでしょうか?

 

その足音は聞こえてきていますね(意味深)

 

 

ちなみに、ゆとり世代は企業のSNS情報統治に対して「匿名性(裏アカウント)」および「鍵アカウント」で対抗しました。

 

振り返れば2014年頃が境でしょうか、、

バカッターやバカスタグラムが話題になった以後、企業が新入社員のSNS活動を極端に規制したがために、InstagramTwitterでは、ゆとり世代による「裏アカ」と「鍵アカ」だらけになってしまったのです。

実名利用のFacebookの衰退もこれに関係あるかと思います。

 

堂々と本名で発信している20代は意外と少ないですよね。

 

これは「親の目が気になる」とかではなく、現在の日本社会では、企業による規制によって、ほぼ言論の自由がないことを意味しています。本当に恐るべきは国家ではなく企業なのかもしれません。

 

ただし、ひとついえることは、

就職氷河期世代の部下がゆとり世代であるように、ゆとり世代の部下はTikTok世代になるわけです。

 

2000年以降生まれのスマホ ネイティブ世代の価値観をどのようにして企業や組織の活動として上手にドライブさせていくか。

 

人口減少社会における日本においては、切実な問題になってくるかもしれません。後輩世代と意見衝突を繰り返すようでは厳しいかと思います。

 

評価経済社会へ移りゆくなかで、TikTok世代と正面から "いいね勝負" をしたら、「匿名アカ」と「鍵アカ」に逃げてしまったゆとり世代、あるいはその上の世代は、発信力においては恐らく負けてしまうことでしょう。

 

そのような意味でこれからの時代は、自身で仕組みを投じながら、TikTok世代のスタープレイヤー(インフルエンサー)を育てる "静かなるプラットフォーマー" を構築できた者が真の勝ち組になっていくことでしょう。

日本の企業がその仕組みを作れるかどうかだと思います。

 

その中核に動画コンテンツがあるのかもしれません。

 

ただ、今後懸念すべきこともあります。

人工知能の発達で、まるで写真の合成のように動画を捏造できる技術、いわゆる「ディープフェイク」が今後、社会問題化するかもしれないと予測する人がちらほら増えてきました。

 

文字コンテンツが衰退し、動画コンテンツが主流となるなか、ディープフェイクに対して法的な対策を講じる必要性もあるかと思います。

 

動画コンテンツがそれだけ、経済活動にも、政治的にも、無視できないメディアへと変化してきています。

 

そしてTikTok世代が、そのフェイクの蔓延に対して、どのようにして真実を勝ち取っていくのか、小高いところから見守ろうではありませんか。

 

僕らゆとり世代にとって、いつかの未来をつくる仲間になるのは、スマホ片手にランドセルを背負っている少年・少女なのです。

 

2019/05/06

日本的とは何か、令和改元に思うこと。

@monoshiri_lab Twitterより

 

令和改元、おめでとうございます。

 

元号が平成から令和に改元されたことで、気持ちを新たに切り替えた方も多いのではないでしょうか。

 

この一連の改元ムードのなかで、日本的な要素の構成には、ある種の「匿名性」が潜んでいるのではないかと思いませんでしたか。

 

そもそも、国歌である『君が代』や「日章旗」は作者不詳で、元号に関してもその名付け親を知っている人は少ないでしょう。

 

でもそれを議論する必要性がないことが日本の美徳であるように思います。

 

時の首相が令和の選定に関わったと誇らしげにしているような話を聞くと、匿名性という視点から見れば、やはり違和感を感じるのです。個人的に。

 

この先の令和新時代は、国家・マスメディア・大企業から発信される「大きな物語」を軸に生きるか、近所から聞こえる痴話喧嘩のような「小さな物語」を軸に生きるかも自分次第です。

 

世界的なベストセラー『サピエンス全史』『ホモ・デウス』のなかで、クロマニヨン人ネアンデルタール人と違い、ホモ・サピエンスは、「フィクションを信じる力」を手に入れることができたと解説されています。

 

それがホモ・サピエンスが人類の頂点として生き残った理由とされています。

 

人類の進化の過程にある「通貨・国家」等の近代的な権威を信じることは、例えそれが "茶番" だと分かっていても、そのフィクションを否定する行為自体が、ホモ・サピエンスとしての人類の進化の根源を否定することに繋がるのです。

 

保守の価値観の根源はそれであり、やれ日の丸が…、やれ移民が…、ではありません。

 

令和新時代、日本の保守観もアップデートされていくと良いですね。

 

それでは。

 

https://audiobook.jp/product/238413

 

 

 

 

おっさん臭いけど『中央公論』や新書は建築学生の思考の種になるという話。

おっさん臭いけど『中央公論』や新書は建築学生の思考の種になる。

建築学生といえば一般的にどんな書籍を読んでいるでしょうか。意匠系建築学生だとよく見られるのは、実務書以外に建築雑誌や建築家の出版した書籍などを読む姿です。

主に月刊誌でありますが新しく竣工した建築が毎月紹介されたり、建築家が自身の作品や持論を紹介する書籍が出版されたり、学術でいえば日本建築学会の学会誌など、その領域の幅は非常に広いものです。 


近年ではLIXIL出版から建築系WEBサイト『10+1』が電子テキスト化されているので、通学中にスマートフォンを通して気軽に建築学に触れることも可能になってきました。

また、TwitterFacebookなどのSNSの普及によって、建築家や先生が「今感じたこと」についてより迅速にアクセス可能になっています。
また、建築学生も「今感じたこと」を共有するようになり、卒業設計展覧会ではリアルタイムに講評の様子が実況がされるようになるなど、建築を巡るメディアのあり方が大きく変化してきました。この状況は建築に限りうる話ではもちろんありません。

しかしながら、これだけ沢山の情報に迅速にアクセスできる時代だからこそ、忘れてはいけない視点があるように思います。それは、「日本でおきている社会問題について建築家がどのように関わっているか」もしくは「どのような見方をしているか」を俯瞰する視点だと思います。

2011年に起きた東日本大震災以降の建築家の活動について非常に勉強になった展覧会がありました。それは「3.11以後の建築展」です。キュレーターは建築史家の五十嵐太郎氏と「コミュニティデザイン」で知られる山崎亮氏です。

詳しい内容は書籍化もされていますので、ぜひご覧になってください。

www.amazon.co.jp



この展覧会で感じることのひとつに、3.11以降の建築家の活動は、これまでの90年代やゼロ年代の挑戦的な作品表現をする建築家とは若干スタンスを変え、非常に社会に対して身近に寄り添った存在になってきているということです。 それだけ、東日本大震災が一般社会に限らず建築家に心理的な強い影響を与えたことが分かります。

建築学生の間でも卒業設計の展覧会を通して同じような現象が起きていることが確認できます。例えば、2010年頃までの「せんだいデザインリーグ」の冊子を読んでいみると、最近の卒業設計とはまるで違う作品の雰囲気が漂っています。

 

ここでは作品に具体的に言及することは避けますが、東日本大震災以降はいわゆる「私性か社会性か」の議論の中では、圧倒的に「社会性」のある社会問題に寄り添った卒業設計のテーマが増えてきたのは確かです。建築学生も震災を通して大きな心理的影響をうけているのです。 


それ以前は「こたつ問題」を引き起こす要因があったように、リアリティよりも想像性を意識する空気が建築学生の間にも流れていたように思います。最近のような「提案」というよりかは、この頃は「作品」をつくっているという意識がありました。

実は3.11の震災を通して、建築家や建築学生が、社会との協調や対話を強く意識しはじめたというのが、私の感覚的にみた傾向です。
その視点でみるとき、やはり建築家が「社会の何をみているのか」を知っておかなければならないと思います。

つまり、近年の建築家の活動を正しく理解するためには、建築学の閉じた議論だけではなく、広く一般化された社会問題を把握している必要があると感じました。では、それを知るためには何を学べばよいのでしょうか。


たまには建築以外の分野の本も読んでみる

まず簡単にできることは新聞を読むということだと思いますが、個人的にはそこから一歩踏み込んで『中央公論』や新書を読むようにしています。 このような書籍は、広く一般化された社会問題を知るために非常に便利だと感じています。

というのも、私は建築学生ですので、同じ建築学生よく議論をすることがあるのですが、建築家について死ぬほど詳しい学生には出会ってきましたが、「地方消滅」というフレーズや、最近良く聞く「CCRC」という言葉に反応できる建築学生が少ないように感じました。

このようなフレーズは新聞や『中央公論』を日常的にお読みの方なら、わりと理解していただけると思います。
「地方消滅」というのは『中央公論』や日本創生会議のなかで増田レポートとして2014年の夏ごろから散々議論されてきた、若年女性人口の減少問題と地方の894市町村の消滅危機のことです。

また、「CCRC」とは東京でまもなく発生する団塊の世代の医療・介護施設不足である「2025年問題」の対策として、リタイア後の健全な医療介護ケアを包括的に行う高齢者の生活共同体のことを示します。これは建築メディア『10+1』にも"当たり前"のように出てくる議論です。

10+1 web site|日本版CCRCの要点──その背景と取り組み|テンプラスワン・ウェブサイト


このような社会問題を把握すると、近年の建築家の活動や視点が非常に分かりやすくクリアに見えてくるのです。社会問題を把握することによって、建築家がなぜその活動をしているのかが分かるようになります。

具体例でいえば、「3.11以後の建築展」で紹介されたBUSアーキテクツやNPO法人グリーンバレーによる徳島神山町での活動などは、『中央公論』で巻き起こった「地方消滅」の議論以後、提案が広く一般の方々に認知され、いまや日本中の注目を集めています。最近では「消費者庁の移転」の実験も行われるほどです。

engawa-office.com

地方の人口減少や限界集落などの問題を悲観的ではなく肯定的にとらえながら、「サテライトオフィス」と称したIT企業特化のオフィスを誘致し地方移住を促進させた例です。非常に有名な例ですので、ここに詳しく記す必要はないかと思います。

しかし残念なことに、人口減少や限界集落という言葉を知っていても、その社会問題の深刻さを把握していないと、「美しい古民家の改修例」として学生の理解が流されてしまいます。 実際にそのように理解していた建築学生が存在していました…。
以前、記事にも書きましたが「幼稚園落ちた日本死ね!!!」を他人事だと思っている建築学生もいます。ここにも書きますが大切なのは社会問題を設計者の自分事のように考える自己批判姿勢です。

中央公論』やその議論をもとにした新書などは、それを他人事と思いこまないためのキッカケを必ず建築学生に与えてくれます。 さすがに建築雑誌のように定期購読するのはしんどいですが、図書館にいけば必ずあるので、ぜひ目を通してみることをおすすめします。

最近だと、昨年のせんだいデザインリーグ卒業設計日本一決定戦、SDL2015(2015年の3月に開催)で10選ファイナルとなった「匿名都市」の「ハイパーコンビニ案」は、『中央公論』2015年11月号の特集にあった「コンビニ依存社会ニッポン」の特集にある議論や観点とリンクしていて、読みながら驚いた記憶があります。

本当にいろんな発見があると思いますので、ぜひ建築以外の雑誌や書籍にも目を通してみてください。 そしてそれを「建築で問題解決可能か」という視点で、自分事のように見る癖をつけるといいと思います。

【時事】「保育園落ちた日本死ね!!!」を建築学生は他人事として考えてはいませんか? - ものしり建築研究室

森山高至『非常識な建築業界「どや建築」という病』を読んで、建築学生が教育現場について考えたこと

森山高至『非常識な建築業界「どや建築」という病』を読んで、建築学生が教育現場について考えたこと

最近、なにかとお茶の間で見かけるようになりました建築エコノミスト森山高至さんが、光文社新書からこのような書籍を出しています。その名も『非常識な建築業界「どや建築」という病』です。

かなり挑戦的なタイトルではありますが、業界の抱える教育現場の深層的な問題にまで深く掘り下げて書いた本はこれまで少なかったように思いますので、建築学生として「気になった部分」を勇気を出してここで取り上げます。
自分は設計(いわゆるデザイン力)が他の建築学生に比べて乏しいことを常に反省しているのですが、そもそも、我々建築学生が「いったい何を目指しているのか」を真剣に考える機会を与えてくれる本です。

この本の始まりでは、分かりやすい身近な問題として幼稚園建て替えコンペで実際にあった一幕を紹介しています。実際にどの街で行われたコンペの話かは記述されていません。
その内容によると、最終審査では2案が残り、その質疑のなかで見えてきた建築家と一般の方の建築に対する認識のズレを紹介しています。それがひいては新国立競技場問題で出てきた視点とリンクしていくという展開です。
幼稚園コンペの最終審査では「壁面緑化、屋上緑化案」と「歪んだキューブを積み重ねた」2案が残りました。
ともに審査員は前者を環境性を高めたという点で、後者を「新時代の建築を予感させる」と高評価を下しました。しかしながら、この幼稚園の園長先生は全く違う指摘を行ったことを紹介しています。 

①緑化型について
園長先生「園舎を緑化すると虫がたくさん寄ってくるとは思うのですが、その管理はどうされるおつもりですか?」
建築家「定期的に殺虫剤を撒いておけば虫はこないと思います」

②バラバラ型について
園長先生「どうしてサイコロを積み重ねたようにデザインされたのですか?屋根やベランダみたいなところが増えると、将来そこから雨漏りしないか心配です」
建築家「施工時に防水処理を完璧にするので、雨漏りはゼッタイニしません」

同じ計画案を前にしているにもかかわらず、建築分野の専門家と素人では、視点がまったく違うのです。(19~20ページ)


つまり、新国立競技場問題もこの幼稚園のコンペで起きたような視点のズレが特に予算面で大きく重なっていったことが建設反対の声を大きくしたとしています。
この本では問題の本質をそこに設定しました。そしてこの視点のズレが大きく増幅された原因として、建築家がいつしか社会に対して理解されない価値観で「どや顔」をするようになった背景があったとしています。

これは、全ての建築家で必ずしもそうとは限らないのですが、一般の評価基準から遠く離れた(もしくは、離れていると思われてしまう)設計を建築家がしているということです。
某元総理が新国立競技場案を「生ガキみたい」といった発言をしたことも、デサインという表層において、ザハの思想が上手く受け手に伝わっていないことを非常に端的に示しています。

私はそのような建築を総称して「どや建築」と呼んでいます。見ているほうが気恥ずかしくなるほどの得意気な自慢顔のことを、関西弁の「どや?」と掛けて「どや顔」といいますが、それと同じ感情が芽生える建築のことです。(70ページ)


森山さんはザハの設計思想にある「脱構築主義建築」の概要をとりあげ、建築家が一般の方では到底分からない哲学や理論を持ち出すことに問題があったとしています。そして、そのような建築をタイトルに出てくる「どや建築」と定義しました。

 

専門家と素人のズレは建築学生はちゃんと客観視している 


この本では、建築の「専門家」と「素人」という明確な線引きが敷かれ展開していきます。 ここでいう「専門家」というのは、主に設計のプロのことを指し、建築家や建築学者のことを指していると思います。実際に工事を行うゼネコンや工務店のことではありません。現場の施工は建築家(建築士)の設計通りに行うので、あくまで建築の形を設計をした者のことを狭義の「設計者=専門家」とし、なおかつ建築家に近い価値観をもつ者としています。 「素人」とは文字どおり建築をあまり詳しくしらない一般の方のことです。

ここで再確認しないといけない話があります。建築学生はこの視点からみると「専門家」と「素人」のどちらの価値観に立っているのかという視点です。

基本的には誰もがうまれたときには建築の素人であることは確かです。それが、大学で建築学を専攻することによって、徐々に建築の素人から専門家になっていきます。 つまり、建築学生は入学当時は(よほど意識が高くない限り)素人の視点をもっているということです。これは建築学だけにいえる話ではありません。

建築学生はそこまでアホではありません。ここで森山さんが指摘している専門家と素人の視点のズレを客観視し、実は誰よりも身近に感じれる立場なのが「建築学生」だったりするのです。

 

このズレを認識した学生、例えば脱構築の思想や、建築にオリジナリティは必要ないと思った学生は、建築意匠や哲学思想などの教養深い世界からだんだんと身を引くようになります。研究室配属では構造系、設備系などの実務的な研究室に所属し、早々と就活をしています。この本でも以下のように書かれています。

(前略)彼らはむしろ現行の社会により適応できる実務的能力を求めて、「建築作品」といったものに二度と関わろうとしなくなります。(中略)大学のあまりに極端な「オリジナリティ」教育により、かえってそこにアレルギー反応を起こしてしまっている実務者を、私はその後多く見かけました。非常に残念なことと言わざるを得ません。(133ページ)

 

実は、建築学生の多くは独立して建築家という職業にならずに、どこかの会社組織(といっても公務員、ハウスメーカー工務店組織事務所、ゼネコンや不動産などの建築関係)に勤めるという人生を歩んでいます。おそらく99%建築学生がそうではないかと思います。

実際に私も建築学科にいるのですが、多くの学生が建築意匠という激しい競争社会に破れ、夢を諦めるかたちで意匠の世界から撤退していく姿を目撃していきました。そのような人に「建築アレルギー」があるということは、非常に的を得ている見解です。

本書ではこの建築アレルギーが学生に起きている原因として、教授ではなく建築家として成功した非常勤講師による過度なデザインのオリジナリティ教育としていますが、これは大学によって変わる(例えば地方国立大などは建築家を非常勤講師に採用していない例もある)話なので、すべての教育現場でおきている話ではありません。

重要なのは、建築学生が学問に触れて「素人」から「専門家」へと変わっていく過程のなかで、建築家の価値観を建築学生が受容する上で大変苦しい葛藤をしていることに、教育現場がちゃんと気づいているかという視点だと思います。

近年では、大学外の「講評会」「展覧会」という形で建築学生の設計課題の学内評価が相対化されるという機会が増え、ネットの普及で建築家に、より身近で気軽にアクセスできる機会も増えています。 また最近では、大学内で教授陣に悪評だった設計課題が、大学の外の展覧会などで建築家に高く評価されて最優秀賞を獲るようなことに、建築学生が強いアレルギー反応や混乱をしている事態も良く見受けられます。

「建築には正解がない」とよく言われますが、まさに建築の性能以外の良さを測るものさしとしての正解がないがために、そのようなことが教育現場では起きているのです。建築アレルギーを増やさないための努力が今後必要とされると思うのですが、いまの建築業界の教育現場が変わろうとしているようには私の目には見えません。これは、いち建築学生の意見です。



この文章が、いつか誰かの目にとまりますように。

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4334039057/ref=cm_sw_r_tw_awdo_c_x_oMTvCbJMWB5K0

 

 

建築保存活動は建築の学者や学生の議論を超えて「政治的」で「経済的」な視点をもつべき

最近、建築学生の活動のなかで非常に興味深い話題を見つけました。出雲大社庁の舎の保存活動が盛り上がりを見せているという話です。そこから少し持論を記します。

j-town.net

「庁の舎」は1963年に作られた建物で、後に大阪万博のエキスポタワー、沖縄海洋博のアクアポリスなどを設計する菊竹清訓氏によるものだ。元の庁の舎が1953年に焼失したため、防火性能が高く、災害にも強い鉄筋コンクリート構造になっている。歴史の深い出雲大社という場所で、コンクリートという現代的な素材を使い、調和させたことで人気が高かった。

 数週間前からではありますが、早稲田大学の有志メンバーが菊竹清訓設計の「庁の舎」の保存活動をしています。しかしながら、本当に保存されるかは現在でも未定事項です。保存活動が非常に大きな盛り上がりになることは建築学生として喜ばしいことであります。

 

しかし私が問題視したいのは、出雲大社庁の舎の保存活動は、建築の学者や学生の議論を超えて「政治的」で「経済的」な視点をもつべきという視点です。建築学生やそれに賛同した学者のみが声をあげるのではなくて、もっと違う角度、むしろ多方面から声をあげさせるべきではないかと思うのです。

 

もちろん、「この建築は歴史的価値があり重要であるがために残されるべき」という声をあげる第一歩は、建築家や日本建築学会などの役割であることは確かですが、そこから外部の業界に波及する(政治的に経済的な)手法を業界全体で共有しないといけないと思います。日本建築学会の会員3万5千人や建築学生の力だけではやはり限界があるように思うのです。

 

そこで、ここに建築の保存活動を「政治的な」「経済的な」ロジックへと変換させた一例を紹介します。しかしながら、これから紹介するのは成功例ではありません。とはいっても、建築保存の本質を探るために大変重要な例ですので紹介します。

 

大阪府東大阪市旭町庁舎

大阪府東大阪市にある旭町庁舎(旧枚岡市庁舎)は、坂倉準三事務所にいた東孝光設計の庁舎建築です。東大阪市へと合併する前の、旧枚岡市の市役所として1964年に建設されました。日本の伝統建築に見られる意匠をつかい、モダニズム建築と日本建築の意匠融合を目指した戦後期を象徴する美しい建築です。「関西のモダニズム建築20選」に選ばれ、歴史的に価値がある建築ですが、市は計画通り新庁舎を建設するとしています。詳しくはこちらを見てください。

 

www.change.org

 

さて、ここで関西建築保存活用サミットが、2015年に東大阪市長選挙の立候補者に対して宛てた嘆願書のなかに、このような記述があります。

こちら - 関西建築保存活用サミット kanken-summit.net

■質問3 より適切な耐震改修の計画実施により、「東大阪市旭町庁舎」の固有の文化的価値 を損なうことなく、原稿の建替え事業計画よりもはるかに少ない費用で、必要な耐震性 能の確保と長寿命化は達成可能です。この利活用設計に優れた建築構造学識経験 者らに依る耐震改修提案をする用意があります。このような提案の対応についてどの ようにお考えでしょうか。

(回答) 本市の多くの公共施設が、必要な耐震性の確保と長寿命化が求められています。 しかし、同時に、その耐震化は、解体・建替えよりも費用が少なく、旭町庁舎のような建 築物の場合、その歴史的文化的価値を損なうことなく行われることなどが求められます その点で、貴団体のご提案は誠に心強くありがたいと思います。

 

一般的に市役所などの公共建築の場合なら「建築的保存価値が高い=改修保存するべき」という建築業界だけにしか通じない理屈だけでは合意を得るのは難しいものです。しかしこのように、うまく政治的なロジックへと変換させることによって、「市役所の新設予算の削減のため=改修保存するべき」という方向で市民の合意を得ようとする方法もあるのです。

 

つまりここで主張したいのは、出雲大社庁の舎の場合も、「建築的保存価値が高い=改修保存するべき」という建築を知っている人にしか通じない理屈を「政治的に」もしくは「経済的に」変換させる必要があるのです。今回の場合は公共建築と違い、宗教法人の所有物となるため説得が難しいうえに、設計当初から雨漏りが激しいとの報告もあるので、さらにハードルは上がりますが…。

 

もう一例紹介します。 

●塩屋ジョネス邸

www.sankei.com

 

実際に保存価値や景観形成の意義が高い洋館建築の解体にともなう、民間企業の開発を阻止しようとした例があります。これは兵庫県神戸市須磨区にある塩屋と呼ばれる地域の洋館保存活動の例です。この街は神戸から続く海に面した風光明媚な地域で、洋館を取り壊し中層のマンション開発が行われることを阻止しようと住民が立ち上がりました。

 

署名活動のみでは解体の多少の延期や活動の周知は可能かもしれませんが、解体阻止をする強制的な拘束力をそもそも持たないことが一般的です。そこで、塩屋ジョネス邸解体危機の場合は、市民による出資の合同会社を立ち上げ、実際に土地取得の3億6000万円を目標として寄付を募りました。(実際には5000万円しか集まらず解体されています)

 

つまりこの例では、ジョネス邸所有者の開発業者に対して、「経済的な利益」を突きつけることによって解体阻止を迫った例です。結果的にこのジョネス邸は解体されてしまう結果に終わりましたが、企業が経済の論理だけで動くのは当然なので、そこに建築学の美学を訴えてもまるで通用しません。「目には目を」とはよく言ったものですが、解体阻止を迫る方法として、実際に土地取得の資金を集めようとしたのは、実に効果的な方法ではあると思います。

このように、「建築的保存価値が高い=改修保存するべき」という建築業界だけにしか通じない理屈だけではなく、うまく経済的なロジックへと変換させるための実行が必要となります。

 

以上記したように、建築保存と一口にいっても、「政治的」「経済的」なロジックに変換させることが重要で、さらに相手が行政なのか開発業者なのかによって「護る側」の対応や実行が変わっていることを紹介しました。

 

今後、出雲大社庁の舎がどのような保存活動に発展していくか、建築学生としては非常に興味深い話題です。今後もこの話題は追って記したいと思います。

 

 

【時事】「保育園落ちた日本死ね!!!」を建築学生は他人事として考えてはいませんか?

【時事】「保育園落ちた日本死ね!!!」を建築学生は他人事として考えてはいませんか?

※後半でSDL2016の話とつながります。

ブログ「保育園落ちた日本死ね」が国会に取り上げられ話題になっていますが、日本の保育園が増えない理由は保育士待遇の低さもそうですが、これは「建築の問題」もはらんでいると個人的に感じています。

一例に、保育園に必要な(国に認可を受けるための面積の)校庭を確保する土地が見つからず、仮に建てたとしても土地が広すぎるわりに儲からないことなどが問題として挙げられます。この保育園の待機児童問題は今に始まったものではありません。実際に2年前の記事ですが東洋経済新聞にはこのように書かれています。

 

toyokeizai.net

 

そもそも保育所には、国の基準を満たす認可保育所と、その基準を満たさない認可外保育所(無認可と呼ばれることもあります)の2種類があります。認可保育所の場合、0歳児(≒育休明け)には1人当たり3.3平方メートル、子ども3人に1人の保育士が必要です。これを確保しようと思うと、10階建ての保育所ができるならともかく、民間企業が参入しようと思っても採算がとれません。

 

少子化なのになぜ待機児童が増えないのかという問いに答える記事があったので、読んでみると保育士が少ないという根本原因のほかに、意外なのは保育園開設にかかる空間的ハードルが見え隠れしています。

代表的なのは「校庭を確保できる土地が確保できない」「土地の広さの割りに儲からない」という問題の根底にあり、「同じ広さなら駐車場の方が儲かる」という理由もありました。

 

では、そもそもなぜこのような待機児童問題が起きてしまったのでしょうか。

 

話がやや大きくなるのですが、そもそも日本は高度経済成長の流れにのって、農業・生糸産業から重工業社会へ転換し、都心が地方から若者の労働力を吸い上げる形で大家族の「世帯分離」と「核家族化」が始まりました。つまり、核家族だとそもそも子育てに祖父や祖母が参加できないため、最近の共働きの動きに伴って保育需要が加速的に生まれているということです。昔は3世帯同居は当たり前で、そもそも介護不足問題も待機児童問題も顕在化していませんでした。

 

ひいては戦後から一貫して続いている東京一極集中もその大きな原因で、保育園の待機児童問題は主に人口拡大が激しい首都圏で発生しており、近年の建築業界でのマンション開発の流れとも深く関連しています。圧倒的な数の上京者に街の機能補填が追いついていないのです。実際に地方都市では待機児童問題はさほど深刻な問題にはなっていないのです。

www.sankei.com

 

つまり、「世帯分離」「核家族化」と東京一極集中、そして「共働きをしないと住宅ローンを返せない(もしくは、そもそも飯を食えない)現状」などの建築が絡んだ複合的な原因が、家庭内での保育を不可能にさせた原因ともいえるのです。その責任は、いわゆる「近代家族像」のあり方を助長させた建築業界にもあるといってもよいでしょう。

大切なのは「少子化といわれている時代になぜ保育園が足りないのか」という根本的な問いに対して、そもそも自分達(建築業界)で解決可能な問題ではないかを問いただす自己批判姿勢をもつことなのです。「私たちは関係ない」というのではダメだと思います。

 

 

2016年のSDL2016、卒業設計日本一決定戦の結果で思ったこと。

一方で東洋経済新聞の記事のなかに「こども園」というキーワードも出てきていました。

一方で、幼稚園は少子化に伴って閑古鳥が鳴く状態になりつつあります。私は大都市圏の公立の幼稚園というのは、もはや役目を終えて民業圧迫の域に達しているため、保育の機能も備えたこども園になるべきだと考えるのですが、なかなかそうもいかないようです。

 

ここで出てくる「こども園」とは保育機能を備えた幼稚園のことで、幼保統合の可能性として注目されてきたビルディングタイプです。いくつかの都府県で条例が制定されています。以下のURLには説明があるので読んでみてください。

認定こども園について 東京都福祉保健局

 

面白いことに、今年の「せんだいデザインリーグ2016」で卒業設計日本一を勝ち取った作品のビルディングタイプが「こども園」だったということは興味深いです。社会の中で起きている「保育園落ちた日本死ね!!!」の話題性と上手くリンクしています。

 

個人的に思うのが、社会動向に上手くマッチした卒業設計は、つよい批評性や訴える力をもっているのだと感じました。建築が社会と対話し続けることの重要性はそこにあることだと思います。

ここであまり細かく作品の空間の話をするのは避けますが、卒業設計日本一決定戦の結果を聞いて何となく納得した理由のひとつに、「保育園落ちた日本死ね!!!」の切実な社会の叫びが日本中で巻き起こっていたからだと感じています。卒業設計では、このような視点をもって設計することが大切なのだと思いました。