ものしり研究室

建築学科棟5502号室、ものしり建築研究室です。建築業界や建築家、建築学生の動向を関西の建築系大学院生が自分なりにまとめてます。→社会人になりました。

森山高至『非常識な建築業界「どや建築」という病』を読んで、建築学生が教育現場について考えたこと

森山高至『非常識な建築業界「どや建築」という病』を読んで、建築学生が教育現場について考えたこと

最近、なにかとお茶の間で見かけるようになりました建築エコノミスト森山高至さんが、光文社新書からこのような書籍を出しています。その名も『非常識な建築業界「どや建築」という病』です。

かなり挑戦的なタイトルではありますが、業界の抱える教育現場の深層的な問題にまで深く掘り下げて書いた本はこれまで少なかったように思いますので、建築学生として「気になった部分」を勇気を出してここで取り上げます。
自分は設計(いわゆるデザイン力)が他の建築学生に比べて乏しいことを常に反省しているのですが、そもそも、我々建築学生が「いったい何を目指しているのか」を真剣に考える機会を与えてくれる本です。

この本の始まりでは、分かりやすい身近な問題として幼稚園建て替えコンペで実際にあった一幕を紹介しています。実際にどの街で行われたコンペの話かは記述されていません。
その内容によると、最終審査では2案が残り、その質疑のなかで見えてきた建築家と一般の方の建築に対する認識のズレを紹介しています。それがひいては新国立競技場問題で出てきた視点とリンクしていくという展開です。
幼稚園コンペの最終審査では「壁面緑化、屋上緑化案」と「歪んだキューブを積み重ねた」2案が残りました。
ともに審査員は前者を環境性を高めたという点で、後者を「新時代の建築を予感させる」と高評価を下しました。しかしながら、この幼稚園の園長先生は全く違う指摘を行ったことを紹介しています。 

①緑化型について
園長先生「園舎を緑化すると虫がたくさん寄ってくるとは思うのですが、その管理はどうされるおつもりですか?」
建築家「定期的に殺虫剤を撒いておけば虫はこないと思います」

②バラバラ型について
園長先生「どうしてサイコロを積み重ねたようにデザインされたのですか?屋根やベランダみたいなところが増えると、将来そこから雨漏りしないか心配です」
建築家「施工時に防水処理を完璧にするので、雨漏りはゼッタイニしません」

同じ計画案を前にしているにもかかわらず、建築分野の専門家と素人では、視点がまったく違うのです。(19~20ページ)


つまり、新国立競技場問題もこの幼稚園のコンペで起きたような視点のズレが特に予算面で大きく重なっていったことが建設反対の声を大きくしたとしています。
この本では問題の本質をそこに設定しました。そしてこの視点のズレが大きく増幅された原因として、建築家がいつしか社会に対して理解されない価値観で「どや顔」をするようになった背景があったとしています。

これは、全ての建築家で必ずしもそうとは限らないのですが、一般の評価基準から遠く離れた(もしくは、離れていると思われてしまう)設計を建築家がしているということです。
某元総理が新国立競技場案を「生ガキみたい」といった発言をしたことも、デサインという表層において、ザハの思想が上手く受け手に伝わっていないことを非常に端的に示しています。

私はそのような建築を総称して「どや建築」と呼んでいます。見ているほうが気恥ずかしくなるほどの得意気な自慢顔のことを、関西弁の「どや?」と掛けて「どや顔」といいますが、それと同じ感情が芽生える建築のことです。(70ページ)


森山さんはザハの設計思想にある「脱構築主義建築」の概要をとりあげ、建築家が一般の方では到底分からない哲学や理論を持ち出すことに問題があったとしています。そして、そのような建築をタイトルに出てくる「どや建築」と定義しました。

 

専門家と素人のズレは建築学生はちゃんと客観視している 


この本では、建築の「専門家」と「素人」という明確な線引きが敷かれ展開していきます。 ここでいう「専門家」というのは、主に設計のプロのことを指し、建築家や建築学者のことを指していると思います。実際に工事を行うゼネコンや工務店のことではありません。現場の施工は建築家(建築士)の設計通りに行うので、あくまで建築の形を設計をした者のことを狭義の「設計者=専門家」とし、なおかつ建築家に近い価値観をもつ者としています。 「素人」とは文字どおり建築をあまり詳しくしらない一般の方のことです。

ここで再確認しないといけない話があります。建築学生はこの視点からみると「専門家」と「素人」のどちらの価値観に立っているのかという視点です。

基本的には誰もがうまれたときには建築の素人であることは確かです。それが、大学で建築学を専攻することによって、徐々に建築の素人から専門家になっていきます。 つまり、建築学生は入学当時は(よほど意識が高くない限り)素人の視点をもっているということです。これは建築学だけにいえる話ではありません。

建築学生はそこまでアホではありません。ここで森山さんが指摘している専門家と素人の視点のズレを客観視し、実は誰よりも身近に感じれる立場なのが「建築学生」だったりするのです。

 

このズレを認識した学生、例えば脱構築の思想や、建築にオリジナリティは必要ないと思った学生は、建築意匠や哲学思想などの教養深い世界からだんだんと身を引くようになります。研究室配属では構造系、設備系などの実務的な研究室に所属し、早々と就活をしています。この本でも以下のように書かれています。

(前略)彼らはむしろ現行の社会により適応できる実務的能力を求めて、「建築作品」といったものに二度と関わろうとしなくなります。(中略)大学のあまりに極端な「オリジナリティ」教育により、かえってそこにアレルギー反応を起こしてしまっている実務者を、私はその後多く見かけました。非常に残念なことと言わざるを得ません。(133ページ)

 

実は、建築学生の多くは独立して建築家という職業にならずに、どこかの会社組織(といっても公務員、ハウスメーカー工務店組織事務所、ゼネコンや不動産などの建築関係)に勤めるという人生を歩んでいます。おそらく99%建築学生がそうではないかと思います。

実際に私も建築学科にいるのですが、多くの学生が建築意匠という激しい競争社会に破れ、夢を諦めるかたちで意匠の世界から撤退していく姿を目撃していきました。そのような人に「建築アレルギー」があるということは、非常に的を得ている見解です。

本書ではこの建築アレルギーが学生に起きている原因として、教授ではなく建築家として成功した非常勤講師による過度なデザインのオリジナリティ教育としていますが、これは大学によって変わる(例えば地方国立大などは建築家を非常勤講師に採用していない例もある)話なので、すべての教育現場でおきている話ではありません。

重要なのは、建築学生が学問に触れて「素人」から「専門家」へと変わっていく過程のなかで、建築家の価値観を建築学生が受容する上で大変苦しい葛藤をしていることに、教育現場がちゃんと気づいているかという視点だと思います。

近年では、大学外の「講評会」「展覧会」という形で建築学生の設計課題の学内評価が相対化されるという機会が増え、ネットの普及で建築家に、より身近で気軽にアクセスできる機会も増えています。 また最近では、大学内で教授陣に悪評だった設計課題が、大学の外の展覧会などで建築家に高く評価されて最優秀賞を獲るようなことに、建築学生が強いアレルギー反応や混乱をしている事態も良く見受けられます。

「建築には正解がない」とよく言われますが、まさに建築の性能以外の良さを測るものさしとしての正解がないがために、そのようなことが教育現場では起きているのです。建築アレルギーを増やさないための努力が今後必要とされると思うのですが、いまの建築業界の教育現場が変わろうとしているようには私の目には見えません。これは、いち建築学生の意見です。



この文章が、いつか誰かの目にとまりますように。

 

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